外に出ること

家の中と外だと気持ちが変わる。家の中で作業をしているとき、不安に駆られる。外だと明日に向かって頑張るぞという気持ちになることが多い。天気も関係している。しかし、ここで勘違いしないでほしいのが雨の日は向上心が下がるということはない。雨の日でも、これからのことを頑張るぞという気持ちになるときはある。それでも、晴れの日はやっぱりより一層頑張るぞってなることが多い気がする。もう一つ、外に出ると向上心が上がる要因として、人と関わるという点がある。人と関わることで世の中に必要とされているという気持ちになり、自分はこの世の中で活躍できる人材であると気持ちが鼓舞され、向上心が上がる。逆に、家の中だと誰も話さず、自分との闘いになるため、気持ちが弱くなることが多いと考える。したがって、何かを達成するためや遂げるためには外に出た方がいいと考える。外に出て、人と話をしてモチベを上げていく。もし、2択のうち1つを選ばなければいけなくなったときは、なるべく人と関わる方を選択するといい。ここで選択を間違えてしまったと気負いはしてはいけない。自分の選んだ道は正しいので、自分を信じて進んでくことも大事である。その中で、今日のような意見が参考になれば良いと思う。

平等と公平

平等と公平について考えとき、よく見るのは野球を観戦する際の土台の大きさの絵である。平等では土台の大きさが均一であるため、子どもは身長が足らず、野球の試合が見れない可能性がある。野球観戦の絵では、公平の方が子どもから大人まで野球が見れるので、公平に賛成である。この絵では公平が良いように読み取れるが、公平はもっと複雑である。例えば、公平を基準に考えたとして、頑張った者には良い手当が与えられる。その一方で、頑張ってない者には良い手当が与えられない。これが単純に考えたときである。しかし、実際は頑張ってない者でも、社会的に最低限度の生活がままならない人には生活保護などが受けられ、処置が与えられている。資本主義であるが、社会的弱者への救済処置があり、1番苦しむのは中間層である。公平であるからこそ、何の恩恵も受けれず、頑張った者と頑張っていない者の支えをしなければいけない。平等であった場合、頑張っていない者が得をする形である。公平の場合は、生活水準は人によって変わるが、中間層は努力に見合った手当を受けれているかは微妙である。中間層の規模にもよるが、公平を維持するのは平等よりも難しいことである。

こんな感じで平等と公平について考えたけど、いろいろ不平不満はある。今の時代、頑張る方向性を間違えると見合った手当や見返りは返ってこないから、頑張る方向性を間違えないようにして頑張らないとね。公平っていいようで実行するには複雑であるからこそ時間がかかるし、慎重に政策を練っていかなければいけないのだと思う。

お酒が好きか嫌いかでいうと好き。お酒を飲んで歌を歌ったり、談笑したりして盛り上がる場が特に好き。その一方で、大事な話をするときなどにお酒を交わしてするのは苦手。酔った勢いでないと本音や大切な話ができないという人がたまにいるが、僕には理解できない。お酒の力を借りている点で、説得力に欠ける。お酒は楽しむものであり、お酒を何かの話を切り出すための手段として使うのは個人的に無理である。お酒の力を借りて本心を伝えられたら怒ってしまいそうである。それもそのはず、仕事や学校だけの仲であり、プライベートでほぼ遊ばない人や関係性が浅い人にそのような本音を言われても平気である。あー、そんな風に思っていたんだとなるから。しかし、自分にとっての親友や友人にお酒を交わして本心(悪い意見)を言われたら、お酒を交わさない場で話そうと言いたくなる。それは、その相手が酔って言ってしまったのか、本心で言ってしまったのかわからないからである。また、ほんとはそんなこと思ってないと思いたい自分がいるからである。お酒の力を借りるって面と向かって話すことから少し逃げていると思う。

こんだけお酒を交わして重要な話をすることを否定したけど、言いたくても言えない中途半端な気持ちのときに、お酒の力を借りて話す人が多いのかな。少し、伝えたいことがあるけど濁して言いたいみたいな。とりあえず、お酒を飲むで盛り上がるのは好き。逆に、お酒の力を借りて本心や本音を打ち明けようとするのは嫌い。誘うときに飲み行こって言って、その場で初めて打ち明けるならいいかもしれない。僕めんどくさい男でごめんなさい。

みんなはお酒についてどう思う!

楽しく飲むのが1番だよね!

歌って不思議だなって思う。気分によって聴く歌は変わるし、心の支えになってくれる。これって、歌っている人の背景が声や言葉となって心に入ってくるのだと思う。身近に人の心を支えてくれる歌ってやっぱり最高だね。自分で歌っても気持ちいし、ストレスの発散にもなる。みんなが歌に対してどういう気持ちを持っているかを知りたいけど。みんなそれぞれに好きな曲や十八番があって、歌を聴くと歌うじゃ感性が違う。聴くときってその曲に興味を持ったり、情に刺さる曲であったりと受け手になるからかな。歌うときはその曲に共鳴?して歌うとか。

 今日はあんまりちゃんとまとまらなかった。というのもいつもはこれ記事にしたいっていうのがふと降りてくるんだけど、今日と昨日はそれがなくて少し考えて記事にしようって思ったのがこれだった。でも、歌は大好きだし良い文化だよね!僕は最近菅田将暉さんが好きです!

インフルエンサー

インフルエンサーを見ていると、大きく分けて①容姿②秀才③天才の3つに分けられると思った。その中でも、②の秀才について今日は話そうと思う。②の秀才はネットだけの環境なら、現実で秀才ではなくても騙れるということが言いたい。どういうことかというと、GoogleやYahooなどから知識を引用してそのまま動画で話したり、文字に起こしたりすればあたかも自分が元から持っている知識かのように騙れるのである。僕が何の知識もなくネットの情報だけで温泉の効果について語ったとしても信じる人が大半である。そのネットから得た情報の真偽は不確かであっても。では、温泉について話そうと思う。岐阜県にある下呂温泉は「健康の湯」といわれるほど疲労回復や健康増進の効果が見込める。Ph値9以上であり、アルカリ性特有の石鹸効果によりツルツルとしたはだざわりがあることから「美人の湯」とも呼ばれている。その他に、群馬県にある草津温泉は日本三名泉の一つである。ちなみに下呂温泉有馬温泉が残りの二つである。そんな草津温泉は、恋の病以外なら何でも治すと言われてきたのである。その理由も、草津の湯の中ではほとんどの細菌や雑菌が繁殖できず、消滅してしまう。

こんな感じにあたかも温泉に詳しい人のように語れてしまう。正しい情報を見抜くことが大切であることを今日は言いたかった。いや、ただ温泉について語りたかったのかもしれない。その他にも、ネットの中だけなら有識者になれるし、このネットを利用すればインフルエンサーにもなれるだろう。ただ生配信やリアルで会った際にうまく立ち回らなければいけない。それでも、口に出したり、文字に書き起こしたりして発信してけば、自ずと知識も身についていくかもしれない。少しでも誰かの助けになったなら嬉しいな。

誹謗中傷

このテーマで合ってるのかはさておいて、今日は誹謗中傷について話そうと思う。話そうと思ったきっかけは昨今話題の文春からである。その中でも、サッカー日本代表選手と女性関係の問題である。どうやら、ここ数日で当事者と思われる女性の顔が割れたが、Xを閲覧してると「可愛くない」だの問題とは全く関係のないコメントがちらほら見えた。これは誹謗中傷であると僕は考える。なぜ、問題とは全くもって関係のない悪口を書いてしまうのか。白黒はっきりついて、完全にその問題に対して悪となってしまった片側には今以上の悪口が飛び交うだろう。悪には何を言っても良いという潜在的な思考、正義感が相手の粗を見つけては誹謗中傷をする。悪いから何を言ってもいいと思っている過激的な人たちがちらほらいるのである。誹謗中傷という問題とどう向き合っていくべきかを僕なりに考えて答えを出そうと思う。まず、加害者側は文字を打つ前に客観的にその言葉が良いか悪いかを見直すべきである。被害者側はネットから離れる力を身につける。この両方を身につけたとしても誹謗中傷を受けた被害者側は相当なダメージを受けると考えられる。言葉を放たれた当人の心の中にはその言葉が根強く残るし、自責の念にかられどんどん心は追いやられていく。その結果が最悪の事態を招くのである。誹謗中傷を無くすためには、一人一人が誹謗中傷に対して真摯に向き合い、考えを改めて言葉を発していくことに尽きると考える。うまくSNSを利用していくことが自分たちの自由を守り、人を守ることにも繋がる。ルールが厳しくなる前に一度その言葉を見直して発信してほしい。また、悪いことはしない方が身のためである。

友情

僕は今日ナルトというアニメを一通り見終えることができた。アニメから友情を述べるのはあまり良いとは思っていない。しかし、述べたくなるぐらい心を動かされたからここに書き留めるのである。ナルトという作品は登場人物のほとんどに人物背景がある。その点で、自分の生い立ちと重なる人物が1人は出てくるはずである。ここでは、友情とは何かを述べていく。友情とは何かと聞かれたとき、僕は支え合える友であると答える。ナルトでも主人公であるうずまきナルトが自分の同期である仲間を助けたり、助け合ったりしている。また、サスケのことは友であるといい手を差し伸べ続けるのである。ナルトとサスケの関係性は、支え合っていた時期もあるが、そうでない時期もある。ナルトの一方通行な時期は長らく続いていたのである。それを踏まえて考えると、友情とは一過性であると考えられる。友情は消えては芽生える。両者が支え合いたいと思っている間にのみ友情は芽生えるのである。片方が離れたり、嫌悪を抱いたりすれば友情はなくなる。僕は一過性であるからこそ、友情というシーンは感動するのであると考える。その数秒で信頼できる友が手を差し伸べてくれる、友ではなくなったと思い込んでいた人物が助けてくれる、どれも文字に起こすだけで感動シーンが描ける。友情とは一過性であるがゆえに感動的である性質を持つ。こんな友情をみなさんは何気ない日常で触れていると思う。たまには、意識をして周りの友達の何気ない手助けや気遣いを探ってみるのもいいかもしれない。友達は大切にしようー!